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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 王 : [おう] 1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi)
エゼルベルト(Æthelberht、560年頃 - 616年2月24日)はケント王国の国王。彼の名は日本語では「エゼルベルフト」とも書かれる。また古英語での綴りも一定しておらず、「Æthelbert」「Aethelberht」「Aethelbert」または「Ethelbert」という表記が見られる。 在位は580年代、590年代頃から始まり616年の彼の死まで王であった。7世紀の学僧ベーダ・ヴェネラビリスが記した『イングランド教会史』では、エゼルベルトをアングロサクソン諸国に対しての「インペリウム」を保持した王の一人に列しており、時代は下って9世紀に編纂されたアングロサクソン年代記では彼をブレトワルダの一人と記している。また彼は最初にキリスト教に帰依したアングロサクソン王としても知られる。 アングロサクソン年代記によると、彼は先代ケント王エオメンリッチの息子であり、妻はフランク王カリベルトの娘ベルタであったと伝えられる。また婚儀はエゼルベルトが王位に就いた以前になされたと思われ、この婚儀を通じて当時の西ヨーロッパで最も強力なメロヴィング朝フランク王国との同盟関係にあった。またグレゴリウス1世がキリスト教の伝道としてアウグスティヌスを派遣させた影響に、この妻ベルタの影響があったかもしれない。597年アウグスティヌスはサネット島に到着するが、到着後程なくエゼルベルトはキリスト教に入信している。そして教会は建てられ、幅広い改宗が行われた。その中でエゼルベルトは新たな教会を自国のカンタベリーに建て、それは現在聖アウグスティヌス修道院として知られている。この時礎として置かれた敷石が後のイギリス国教会の基礎となった。 エゼルベルトの治世に出されたケント王国の法典がゲルマン語派のものとしては最古で、複雑な罰金体系を明記している。大陸に近いケントは富裕な国であり、エゼルベルトは交易を自らの支配のもとで行っており、この事から罰金の複雑さが出てきたとも一説には考えられている。アングロサクソン人がブリテン島に上陸して以来、初めて通貨の流通が彼の治世のケント王国に見受けられている。 後にエゼルベルトはアングロサクソン諸国にキリスト教を広めた事から聖列に加えられた。彼を讃える日はもともと2月24日であったが、後に2月25日に変更された。 ==時代背景== 5世紀になると大陸からブリテン島へ渡る侵入者の数が大規模となった。この中にはアングル人、サクソン人、ジュート人、フリース人がおり、その他にも多くの部族の者がいた。この部族たちは5世紀末にはイングランドの東部、南部を支配下に置くようになっていたが、バドン山の戦いでブリトン人勢力に敗北、以来50年の膠着状態が続いた〔Hunter Blair著、『An Introduction』、13-16頁〕〔Campbell他著、『The Anglo-Saxons』、23頁.〕。しかしながら550年ごろからブリトン人の勢力に陰りが見え始め、それから25年もの間にイングランド南部のほとんどの地域がこれら侵略者の手に委ねられる事となった〔Hunter Blair著『Roman Britain』の204頁によれば、550年から575年の事とされている。〕。 ケントはバドン山の戦い以前にすでに侵略者の支配を受けていたと思われる。史的資料、考古学的調査からケント王国はユトランド半島南部からのジュート人の手によるものという証拠が挙がっている〔Yorke著、『Kings and Kingdoms』、26頁〕。よく知られている伝承では、ヘンゲストとホサの兄弟が449年にブリトン人王ヴォーティガンの傭兵としてこの地に足をついたと言われている。給与の問題で反旗を翻し、ホサはこの戦いで戦死するも、ヘンゲストはこの地にケント王国を建設したと言う〔Swanton訳、『アングロサクソン年代記』、12-13頁〕。傭兵の反乱という話の素地としては真実味を帯びており、またケント王国の建設時期に関しては5世紀半ばと考えられ、これは伝承と合致しているが、この話自体は歴史家から伝説の類と考えられている〔この伝承のどこまでを史実として受け入れるかにおいては学者ごとに意見が相違している。〕。ローマ人がブリタンニアを放棄してからほんの数十年しか経っていないこの時代には、ケントには他の地域よりも多くのローマ帝国の名残が残っていた可能性が指摘されている〔Campbell他著『The Anglo-Saxons』、38頁〕。 このアングロサクソン人の侵入はこのように様々な集団のと、その指揮権を有していた指導者との軍事協力という形で行われていた可能性がある。サセックス王エレはまさにこの種の指導者であった〔Fletcher著、『Who's Who』、15-17頁〕。そしてひとたび国の形成がなされると今度は互いに覇を競い合う事となり、他の集団の支配権が貢納という形で富をもたらした〔Campbell他著、『The Anglo-Saxons』、44頁〕。小さな勢力は好戦的な第3勢力に対するために「宗主」として大きな勢力に保護を求めた〔Hunter Blair著、『An Introduction』、201-203頁〕。この「宗主権」というものがこの時代のアングロサクソン社会の特色であり、また恐らくはエゼルベルトの時代から始まったとされている。 しかしながら細かな詳細は不明、また「宗主」という記述は9世紀以降のものである。 この時代のケント王国の資料として731年にノーサンブリアの学僧ベーダ・ヴェネラビリスが書いた『イングランド教会史』が挙げられる。ベーダはとくにイングランドのキリスト教化の事項に興味を示しており、エゼルベルトが最初のキリスト教を信仰したアングロサクソンの王であった事から前期に書かれた王よりも多くの正確性のある情報を残している。ベーダは殊にイングランドのキリスト教化に関心を持ち、またエゼルベルトがアングロサクソン諸国の中でキリスト教に帰依した最初の王であった事もあり、彼の時代より王達よりも多くの有力な情報をエゼルベルトに関して書き残している。ベーダの言を書き残した人の中にカンタベリーの聖ペテロ・聖パウロ修道院(後に聖アウグスティヌス修道院と改称)の院長であったアルビヌスがいる。また別の重要な資料として、890年代にウェセックスにおいて別々の年代を編纂されたアングロサクソン年代記があり、その中の一部にエゼルベルトの時代のケント王国について触れている〔Yorke著、『Kings and Kingdoms』、25頁〕。 これに加えて、大陸のフランク王国側から、6世紀の教会人トゥールのグレゴリウスにより書かれた史書があり、これにケントに関しての記述がある。これはまた、アングロサクソンに関する最も初期の記述でもある〔Kirby著、『Earliest English Kings』、30頁〕。また教皇グレゴリウス1世の手紙の一部は現存しており、597年カンタベリーのアウグスティヌスの伝道に関する内容を伝えている。これらの資料は伝道そのものを伝えるものであったが、同時にこの時代のケント王国の状況、また近隣諸国との関係を裏付ける資料としても利用価値がある。また別の資料にはケント王国の王族系譜および初期の勅許も含まれている。これらの勅許は王から家臣、教会に対する封土の記録が記載されており、ローマ帝国の属領ブリタンニア以降イングランドが形成される時代における最古の記述を含む書類でもある。この資料はエゼルベルトの時代に記された元本ではないが、筆写された写本としてその一部が現存している。またここにはエゼルベルトが制定した法規内容も見受けられる〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エゼルベルト (ケント王)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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